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最高裁判所大法廷 昭和38年(オ)330号 判決

上告人

藤井清介

被上告人

滝口合名会社

右代表者代表社員

滝口万太郎

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人宮原進名義の上告理由一について。

本件手形により支払を確保されていた上告人の訴外先川宅郎に対する債権の元利金は、売渡担保に供されていた本件電話加入権の売却処分による売得金がその弁済に充当されて完済となつた旨の原審の判断は、原判決の挙示する証拠関係に照らして首肯するに足りる。そして、本件記録を検討すると、当事者は、原審において、上告人の所論通話料立替金債権が本件売渡担保の被担保債権に含まれ、右の売得金をもつて弁済充当さるべきものであるなどの事実関係については、なんらの主張をしていないことが明らかであつて、原判決に徴すれば、上告人の通話料立替支払と右売得金の弁済充当に関する所論摘示の原審の判断は、本件手形をもつて支払を確保されていた債権が右売得金による弁済充当により完済された旨の前記認定に当たり附言として示された傍論にすぎないことが認められる。論旨は、結局、判決の結果に影響のない右の傍論的部分を非難するにすぎないものものであつて、採用することができない。

同二について。

原審の確定した事実を要約すれば、訴外先川宅郎は上告人に対して二口合計一四万円の債務を負担しこれにつき本件電話加入権を売渡担保に供していたところ、さらに上告人は右債務元利金の支払確保のため、被上告人振出にかかる本件約束手形を、その受取人日宝商事株式会社より裏書譲渡を受けて所持人となつたのであるが、その後前記電話加入権は上告人により売却処分され、その売得金一七五、〇〇〇円が右債務の弁済に充当されて、その元利金は完済されたにもかかわらず、上告人は本件手形を返還せずして、振出人たる被上告人に対し、本件手形金の支払を求めるため本訴に及んだというのである。

思うに、自己の債権の支払確保のため、約束手形の裏書譲渡を受け、その所持人となつた者が、その後右債権の完済を受け、裏書の原因関係が消滅したときは、特別の事情のないかぎり爾後右手形を保持すべき何らの正当の権原を有しないことになり、手形上の権利を行使すべき実質的理由を失つたものである。然るに、偶々手形を返還せず手形が自己の手裡に存するのを奇貨として、自己の形式的権利を利用して振出人から手形金の支払を求めようとするが如きは、権利の濫用に該当し、振出人は、手形法七七条、一七条但書の趣旨に徴し、所持人に対し手形金の支払を拒むことができるものと解するのが相当である。

右の法理に照らし、本件手形の振出人たる被上告人は、前示事実関係の下においては、上告人の本件手形金の支払請求を拒むことができるものと解すべきであるから、裏書の原因が消滅したから手形上の権利が当然に裏書人に復帰する旨の原判決の判断は是認できないが、原判決は結局結論において正当であつて、論旨は理由がない。

よつて、民訴法四〇一条、三九六条、三八四条二項、九五条、八九条に従い、裁判官大隅健一郎の補足意見および裁判官松田二郎、同岩田誠の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見により、主文のとおり判決する。

裁判官大隅健一郎の補足意見は、次のとおりである。

原判決は、「本件手形をもつて支払を確保されていた債務元利金は完済され、その裏書の原因が消滅したのであるから、その手形上の権利は裏書の趣旨から見て当然に裏書人たる日宝商事株式会社に復帰し、被控訴人はその手残手形の形式的所持人資格を有するに過ぎない。」旨判示している。これは、手形裏書の無因性を否定し、これを有因的に構成する見解に立つものと認められるが、しかし、かりにこの見解が本件事案の解決について適切であるとしても、それだけの理由で軽々にこの見解を採ることはできない。そのためには、なお手形行為とくに裏書に関する諸多の問題についての仔細な検討を経なければならないからである。そして、裏書の無因性の理論をとる以上、本件におけるように、手形をもつて支払を確保されていた債務が完済され、その裏書の原因関係が消滅した場合においても、手形が返還されないで被裏書人の手裡に存するかぎり、その手形上の権利が当然に裏書人に復帰するものと解することはできず、ただ裏書人は、被裏書人に対してその手形の返還を請求することをうるとともに、もし被裏書人が自己に対して手形上の権利を行使するならば、裏書の原因関係が消滅したことを理由にその支払を拒絶することをうるにすぎないものと解しなければならない。そうであるとすれば、被裏書人はなお手形上の権利者たる地位を有するのであるから、自己の裏書人に対する関係は別として、少なくともその手形の振出人に対しては手形上の権利を行使しうるのではないか、という疑問を生ずるのを免れない。

しかしながら、この場合、被裏書人は手形上の権利者たる地位を有するとはいつても、すでにその手形授受の経済的目的は完全に達せられているのであるから、特別の事情(たとえば、被裏書人が何らかの理由でなお振出人に対してその手形の支払を求める固有の経済的利益を有する場合、被裏書人の意図が裏書人のために手形上権利を行使するにある場合など)がないかぎり、被裏書人は、その裏書人はもとより他のいずれの手形債務者からも、その手形の支払を受くべき正当な経済的利益を有しないものといわざるをえない。したがつて、被裏書人は手形上の権利を有するにしても、これを行使すべき実質的理由を失つているというほかなく(その意味で、被裏書人の有する手形上の権利を形式的権利とよぶことはあながち不当ではないと思う。)、それにもかかわらず被裏書人がその権利を行使することは、権利の濫用ないし信義則違反の行為といわなければならない。もつとも、裏書人と被裏書人との間の裏書の原因関係が消滅したからといつて、その手形の振出人の手形上の義務が消滅するものではなく、また、被裏書人が振出人から支払を受けることにより不当に利得するとしても、結局、その利得は不当利得ないし損害賠償として裏書人に帰せられることとなるが、しかし、上述のように、すでに裏書の原因債権につき完全な満足を得て手形上の権利を行使すべき実質的理由を有しない被裏書人に対しては、むしろ端的に、振出人においてもその手形の支払を拒絶しうるものと解するのが、手形関係者の間の衡平をはかるゆえんであると考える。

右の見解に対しては、手形の形式性ないし厳格性を強調する立場から、手形法においては権利濫用ないし信義則のごときいわゆる一般条項の適用を排除しまたはとくに制限すべきである、と反論が考えられる。いうまでもなく、かかる一般条項への安易な逃避は慎まなければならないが、しかし、手形法だからといつて、一般条項の適用をとくに排除しまたは制限しなければならないとする理由はないと思う。流通を使命とする手形の制度を規制の対象とする手形法においては、立法上可能なかぎり、一般条項による解決を必要とするような問題の余地を残さないことが望ましく、さればこそ、かつては信義誠実、権利濫用の理論等を根拠として解釈上認められていた悪意の抗弁についても現行手形法は明文をもつて規定するにいたつたのであるが、しかし、立法が完全無欠なものでありえない以上、一般条項の適用にまつべき問題の存することは、手形法と他の法域とで異なるところはない。ことに、手形法において、手形取引の必要を超えて手形の形式性が強調されることは避けなければならないし、また、手形の形式性ないし厳格性が、実質的考慮を排除して、自己目的と化してはならないのであつて、そこに一般条項の働くべき余地が存するのである。上述のように、かつて悪意の抗弁が形式的権利に対する実質的権利の防護、信義誠実、権利濫用の理論に基づいて認められていたことは、その間の消息を窺わしめるものにほかならない。現行手形法一七条は悪意の抗弁については明文をもつて規定したが、なお同条がいわゆる人的抗弁につき「人的関係に基く抗弁」といつた含みのある抽象的な定めをしている根底には、右のような考慮が働いているものと考えられる。したがつて、その抗弁の内容は、手形法、民法、商法等の具体的な規定のみによつては充たされがたく、一般悪意の抗弁、すなわち権利濫用の理論ないし信義則によつて補わるべき余地が少なくないことは否定しえないところであり、本件のごときもその一事例にほかならないものと考える。このような意味において、多数意見が、本件上告人の手形金請求が権利の濫用に該当し、振出人である被上告人においてその請求を拒むことができるものと解し、その根拠を手形法一七条但書の趣旨に求めたことは、必ずしも理由のないことではない。

以上で、多数意見に賛成する私の考えを述べたが、なおこれと関連する二、三の問題について附言しておきたい。

(1)  多数意見によれば、被上告人は権利の濫用を理由に上告人の本件手形金請求を拒むことをうるのであるが、しかし、かりに被上告人が上告人の請求に応じて手形の支払をしたとしても、被上告人に悪意(上告人が裏書の原因債権につき完済を受けて原因関係が消滅したことを知るのみならず、これを容易に立証しうること)または重大な過失がないかぎり、被上告人はその支払により免責されるから(手形法四〇条三項)、重ねてその手形につき支払を強制されることはない。したがつて、多数意見によつても、その点で手形取引の安全を阻害するおそれはないものといわなければならない。

(2)  本件において、かりに上告人が裏書人から裏書の原因債権につき一部弁済を受けたとした場合、やはり権利濫用の法理が適用されるかどうかは一つの問題であり、種々の意見がありうると思うが、私は、上告人が原因債権につき弁済を受けて原因関係が減縮した限度において、被上告人は手形の支払を拒むことができ、したがつて、その差額を支払うことを要し、かつ、それで足りるものと考える。

(3)  手形の隠れた質入裏書がなされた後その被担保債権が消滅した場合も、本件に準じて考えることができるが、公然の質入裏書がなされた場合には、その裏書の本来の性質に即して考うべきであると思う。

裁判官松田二郎の反対意見は、次のとおりである。

多数意見はいう「自己の債権の支払確保のため、約束手形の裏書譲渡を受け、その所持人となつた者が、その後右債権の完済を受け、裏書の原因関係が消滅したときは、特別の事情のないかぎり爾後右手形を保持すべき何らの正当の権原を有しないことになり、手形上の権利を行使すべき実質的理由を失つたものである。然るに、偶々手形を返還せず手形が自己の手裡に存するのを奇貨として、自己の形式的権利を利用して振出人から手形金の支払を求めようとするが如きは、権利の濫用に該当し、振出人は、手形法七七条、一七条但書の趣旨に徴し、所持人に対し手形金の支払を拒むことができる」と。私は、かかる見解に対して多大の疑問なきを得ない。その理由は次のとおりである。

(1)  多数意見は振出人が手形所持人に対し手形金の支払を拒み得る根拠を「権利の濫用」に求めるのである。およそ権利濫用の許すべからざることは、法の本質に内在するものというべく、われわれは、終戦後、民法一条三項として新たに「権利ノ濫用ハ之ヲ許サス」と規定されるに至つたことを忘れてはならないのである。多数意見は、或は手形の抽象性・文言性・要式性の故に、一層これに対して権利濫用の法理適用の必要をいうのであろう。しかし、法の理念に基づくこのような一般条項は、すべての法域を支配するものではあるにせよ、法域の異るに従つて、その発現形態におのずから差異が生ずるのであり、このことを看過すべきでないと考える。そして、手形関係は、その高度の流通性の要請の故に、他の法域、ことに債権法などに比して、権利濫用の法理に容易になじまないものなのである。けだし、このような一般条項の適用は、ややもすると手形の流通性を害し、善意取得者の保護を欠くことになり、手形制度本来の目的に背反することとなるからである。叙上のことは、いわゆる信義誠実の原則――これもいうまでもなく一般条項である――についてもいい得るところである。そして、注目すべきことは、従来手形法の分野においては、権利濫用又は信義誠実の原則のごとき一般条項の適用について論ぜられることが少なく、却つて、いわゆる「悪意の抗弁」について特に論ぜられていることである。これは、法の理念に根ざす正義・衡平の要請――権利濫用の不許、信義誠実の要求もそれに属し、それはきわめて弾力性のあるものである――が、手形法の要請である抽象性・文言性・要式性――それはきわめて形式的のものである――との間の調整を求めて生じたものともいえよう。いわば、手形法の下において特に論ぜられる「悪意の抗弁」というものは、権利濫用の不許、信義誠実の原則の一つの変容として手形法関係に発現した形態ともいえよう。このように考えてくると、多数意見のごとく、手形所持人と裏書人との内部関係までも取上げて、ここに権利濫用の根拠を求め、この法理によつて手形所持人の請求を一挙に排斥することは、果して手形関係の本質上、肯定できるか否かの問題に遭遇するのである。私は、以下において、権利濫用の法理が手形関係にたやすくなじまないこと、そして殊に本件につきかかる法理を適用すべきでないことを述べたいのである。

これを手形法の沿革に徴しても、現行手形法――それは、いうまでもなく、一九三〇年にスイスのジュネーブにおいて成立した手形統一条約に基づき、国内法として新たに制定され(昭和七年法律第二〇号)、昭和九年一月一日より施行されたものである――の制定前にあつては、「悪意の抗弁」について成文法上何等規定がなく、改正前の商法四四一条(現行手形法一六条二項に該当する)の精神及び指図債権・無記名債権に関する民法四七二条、四七三条の精神よりしてこれを導き出そうとしていたのであつて、その内容は必ずしも明らかでなかつた。そして、人の知るごとく、手形法統一会議においてすらも、新たに「悪意の抗弁」を統一手形法の条文上に採用するに当つて、いわゆる「悪意」の意味をいかに定めるかについては意見が対立し、その会議においては、妥協的に条文が作成され、わが国の現行手形法一七条但書のごとき「所持人ガ其ノ債務者ヲ害スルコトヲ知リテ手形ヲ取得シタルトキハ」との規定を見るに至つたのである。このような見解の対立と妥協の跡を顧みるとき、悪意の抗弁の沿革は、他の法域におけると異り、手形関係に対して権利濫用や信義誠実の法理のごとき一般条項を容易に用いるべきでないこと――たとえ無意識にても――を暗示するものと解される。けだし、もしこれらの法理が安易に手形関係に適用されるものとの見地に立つならば、「悪意の抗弁」の意味をいかに定めるかについて多く論ぜられたことは、過去の法律学が徒に観念の遊戯をしたことになるからである。

(2)  ここにおいて、私は、多数意見のいう「権利濫用」の内容について、更に検討を進めたい。そこには、次のような不合理を見出すのである。

(一)  まず第一に、多数意見のいう手形法における「権利濫用」は、手形法所定の「悪意の抗弁」(手形法一七条但書)に対し、いかなる関係に立つかということである。この点について、多数意見は、既に述べたごとく、その主張の根拠を「手形法一七条但書の趣旨」に求める。おそらく、その「趣旨」とは、権利濫用の法理とこの条文にいう「悪意の抗弁」との間に相通ずるところありとするのであろう。そして、悪意の抗弁なるものが、権利濫用等の一般条項の手形法における発現形態と解されることは、既に述べたとおりである。しかし、手形法上に明定された「悪意の抗弁」と一般条項たる権利濫用との間には、極めて注目すべき異質のものがそこに見出される。けだし、手形法一七条但書の適用があるためには、悪意が「手形取得の際」に存在することを必要――これが悪意の抗弁主張のための要件である――とし、手形取得後に悪意になつても、手形法のいう悪意の抗弁は認められないからである。しかるに、本件において上告人は手形取得の際のみならず、その取得後においてすらも、被上告人に対して何等悪意を有したものと認められず、ただ自己に対する裏書人との関係において、背信的であるかの問題が存するのに過ぎないのである。要するに、多数意見の主張する権利濫用は、手形法にいう悪意の抗弁にその根拠を見出し難いのである。

(二)  右に述べたごとく、多数意見は手形法にその主張の根拠を見出し難い。しかるに、それにも拘らず、多数意見が敢て手形所持人たる上告人の請求を排斥するに至つたのは、上告人が不当に利得することを虞れたためとも臆測される。しかし、それは杞憂に過ぎないと思われる。

そこで、本件の事実関係についてみるに、原審の確定した事実関係によれば、上告人の請求原因は次のとおりである。すなわち、被上告人は、昭和三三年七月三日訴外日宝商事株式会社に宛て、金額三三万一、二〇〇円、満期同年八月三日、支払地・振出地共に大阪市、支払場所株式会社三和銀行心斎橋支店なる約束手形一通を振出し、上告人は、右訴外会社よりこれが裏書譲渡を受けてその所持人となつたので、同年八月七日前記支払場所に支払を求めるため右手形を呈示したところ、支払を拒絶されたから、被上告人に対し、右手形金額及びこれに対する呈示の日の翌日たる同年八月八日以降完済まで年五分の割合による金員の支払――何故に年五分の割合による金員の支払を求めたのか、記録上も明らかでない――を求めるというのである。そして、被上告人は次の抗弁を主張した。すなわち、訴外先川宅郎は上告人に対して二口合計一四万円の債務を負担し、これにつき電話加入権を売渡担保に供していたが、さらにその支払確保のため、右約束手形を、その受取人日宝商事株式会社(訴外先川がこの会社の実権者である)から上告人に裏書譲渡したところ、その後前記電話加入権は上告人によつて売却処分され、その売得金を以て右二口の債務の弁済に充当されて、元利金は完済されたので、本件手形裏書の原因関係はこれによつて消滅し、従つて、上告人は、被上告人に対し本件手形金の支払を求め得るものではないというのである。そして、多数意見は被上告人のこの抗弁を採用し、上告人の請求を排斥したのであつて、既に一言したごとく多数意見は、上告人に本件手形金の請求を認めることは、上告人をば不当に利得せしめる結果になると考えたのに因るものと思われる。

しかし、私は、多数意見とは反対の見解を採るものである。すなわち、上告人の被上告人に対する本件手形金請求を認容すべきであり、上告人は、被上告人より支払を受けた手形金をば手形裏書人に返還することによつて、上告人と裏書人との関係を解決すべきであると考える。何となれば、被上告人は本件手形の振出人として主たる債務者の地位にある以上、手形金の支払につき責を負うべきは当然であるとともに、上告人が被上告人より支払を受けた手形金額については、上告人と裏書人との内部関係において不当利得とならぬよう解決すべきであるからである。しかるに、多数意見の主張するごとく、振出人たる被上告人が上告人に対して手形金の支払を拒み得るならば、支払を拒まれた上告人が裏書人に対しその手形の返還を怠り且つ甚だしいときこれを廃棄したとすると、被上告人は本件手形の主たる債務者の地位にあるにもかかわらず、手形債務の支払を免れるとの結果を享受することすらあり得るのである。かくては、却つて被上告人こそ不当に利得することとなるのである。

(三)  更に、私は、多数意見主張の「権利濫用」が「悪意の抗弁」と異り、手形の流通をいちじるしく阻害することを指摘したいのである。いうまでもなく、悪意の抗弁は、手形債務者が手形所持人に対して有する「抗弁」であり、従つて、手形債務者側においてこの抗弁事実を主張し、立証して、支払を拒み得るのである。しかるに、もし権利濫用の法理が手形関係に適用されるものとすれば、本来、裁判所は、当事者による権利の濫用を許し得ないのであるから、たとえ当事者が権利濫用の主張をしなくとも、証拠調によつてあらわれた事実関係に照して権利濫用があると認めるかぎり、裁判所は、この法理を適用して権利行使を否認すべきものなのである。そして、この点に関連して、もつとも留意すべきことは、手形所持人が手形上の「権利」を有する場合においては、その所持人が単なる「資格」を有するに止まる場合――これに対する支払は免責の問題を生じ得る(手形法四〇条三項参照)――と異り「権利」が存在する以上、その権利行使が濫用と認められれば、一旦行使した権利の効果が否定されるということである。すなわち、この場合、支払は免責の効果を生じないのである。けだし、もしこれに反する見解を採るときは、権利の行使が濫用だといいつつ、その行使の結果を肯定することとなるからである。従つて、手形所持人が手形金の請求をし、その支払を受けたところ、その権利行使が濫用と認められた場合、手形債務者としてはそのことを知ると否とに関りなく、その支払は無効となり、一旦手形所持人に対し支払をなしたのにかかわらず、それは支払と認められないこととなろう。かくて、もし多数意見が採用され、手形所持人の手形金請求が手形債務者の直接関知しないところの関係――手形所持と裏書人との間の原因関係――に基づいてさえも権利濫用となるならば、おそらく、手形債務者はこのことを危惧するとの名目の下に、「権利濫用の抗弁」を提出して支払を拒むことが多く生じよう。そして、そのようなことは、徒に手形の流通性を阻害し、手形関係を混乱に陥れるに至ることは、いうまでもないのである。

(3)  更に多数意見は、次の点でも問題がある。すなわち、多数意見は、手形所持人たる上告人の裏書人に対して有する債権――それは裏書の原因関係である――が全額弁済されたとの事実に立脚して権利濫用論を用い、手形所持人たる上告人の請求を排斥したのである。しかし、このような見解によるときは、もし上告人が裏書人から一部弁済を受けたのにも拘らず、手形金全額について支払を請求したならば、権利濫用の法理はどの範囲まで適用されるのであろうか。上告人が既に弁済を受けた金額の部分についてのみ、この法理の適用があるのであろうか。そして、多数意見の主張する権利濫用の考え方を貫くときは、質入裏書の場合、裏書によつて担保される被担保債権が全く消滅すると、手形債務者は、権利濫用の法理を楯として、手形所持人に対し手形金の支払の請求を拒み得るのであろうか。多数意見は、これらの問題についても、私達を納得せしめるに足る見解を明らかにすべきであつたと考える。

(4)  更に、多数意見は、手形関係における権利と資格との関係より見ても、理解し難いのである。

多数意見は、本件につき、上告人は手形上の権利を行使すべき実質的理由を失つたのにかかわらず、偶々手形が自己の手裡にあることを奇貨として自己の「形式的権利を利用」したから、権利濫用の法理の適用があるというのである。すなわち、この「形式的権利の利用」ということこそ、多数意見がこの法理適用の理論的根拠と認められる。しからば、この「形式的権利」とは、果して何を意味するのであろうか。思うに、多数意見によれば、上告人は「形式的権利」を有するという以上、上告人は無権利者ではなく、「権利」を有するものというべく、換言すれば、上告人は決して単なる手形所持人たる「資格」を有するに止まるものではないというのである。しかも、上告人の権利は「形式的」のものだというのである。

ここでこの問題を論ずる必要上、私は、簡単ながら「実質的権利」と「形式的資格」の関係について、いささか触れたいのである。いうまでもなく、証券の流通過程においては、一々仔細に実質的な権利関係に立入つてこれを検討することは不可能に近いので、勢い外観に従つて律することが必然的に要求され、ここに「権利」に対して「資格」なる概念を生じるのである。特に前者を「実質的権利」といい、後者を「形式的資格」ということのあるのは、この区別を明らかに示すためであつて、要するに、権利は「実質的のもの」であり、資格は「形式的のもの」であつて、両者はこのような対立関係に立つ。そして、権利者たる外観の存する場合、これに伴つて権利そのものの存することが多いが、しかし、権利が存在しない場合もあり、資格とは、権利に対する観念としてこれと相乖離することがあるのを当然の前提にし、その乖離する場合にこそ、「資格」は資格としての効力――それがもつとも重要な点である――を発揮する。この点に立つて多数意見を見るに、多数意見は上告人を以て形式的にせよ「権利者」とする以上、上告人は「無権利者」にあらず、又単なる「資格」を有するものでもないことに帰する。しからば、手形所持人たる上告人は、いかなる立場にあるのであろうか。原審は、この権利と資格との関係に照して本件の問題を解決しようと努力し、苦心惨憺の上、「裏書の原因は消滅したのであるから、その手形上の権利は裏書人たる日宝商事株式会社に復帰し、上告人は手残手形の形式的所持人資格を有するにすぎない」との理論を構成し、これを根拠として手形所持人たる上告人の権利の行使を否定したのである。すなわちち、原審は、上告人をもつて手形の「形式的資格」を有するが、権利――実質的権利――を有しないとしたのである。私は、原審のこの結論を非とするが、その苦心を多とするものである。しかるに、今、多数意見は、原審と同様の結論を採りながら、原判決の理論構成は「是認できない」としてこれを簡単に斥け、しかも原判決の苦心したところの「権利」と「資格」との関係に対して何等触れるところがなく、却つて両者の意味を混じたものとも思われる「形式的権利」という漠然たる観念を用いて、上告人がこの「形式的権利」を利用して手形金の支払を求めるがごときは、「権利の濫用」に該当するとした。これは権利濫用という一般条項を用いて、簡単に上告人の請求を排斥し去つたものといい得るであろう。かくては、多数意見は、へーデマンの指摘した「一般条項への逃避」の弊に陥れるものとの非難なきを保し得ないのである。

(5)  叙上のごとく、私は、多数意見を非とし、本件上告は理由があるものとし、原判決を破棄して自判すべきものと考える。すなわち、被上告人は上告人に対し、手形金三三万一、二〇〇円及びこれに対する本件手形を支払場所に支払のために呈示した日の翌日たる昭和三三年八月八日より右支払済まで年五分の割合による金員を支払うべしと判決すべきものと考える。

もつとも、本件約束手形の満期日は昭和三三年八月三日であり、所持人たる上告人がこれを支払場所たる株式会社三和銀行心斎橋支店に呈示したのは、同年八月七日であり、従つて、この支払のための呈示は手形の支払呈示期間経過後になされたものであるけれども、私は、支払呈示期間経過後に支払場所にした手形の呈示も、手形債務者を遅滞に附す効力があるものと解するが故に、かく主張するのである(当裁判所昭和三八年(オ)第一二四〇号同四二年一一月八日大法廷判決における私の反対意見、民集二一巻九号二三〇七頁以下参照)。この点について、注目すべきことは、多数意見が権利濫用の法理を用いて上告人の請求全部(すなわち、本件手形金及びこれに対する手形を支払場所に呈示した日の翌日たる昭和三三年八月八日以降完済までの損害金の請求)を排斥していることである。もし、本件多数意見が前記大法廷昭和四二年一一月八日判決における多数意見の示した見解――すなわち、支払呈示期間経過後支払場所における支払のための呈示は手形債務者を遅滞に附する効力がないとの見解――を採るならば、この見解によつて本件をも律し、従つて支払場所に本件手形を呈示した日から訴状送達までの中間の損害金をば、前記大法廷判決の採る理論によつて排斥すべきであつたのであり、権利濫用の法理によつてこの部分を排斥すべきではなかつたと思われるのである。何となれば、本件について、前記大法廷の判決の多数意見によれば、上告人は支払呈示期間経過後訴状送達までの間の損害金を求め得る権利を有せず、従つて、権利の存しない以上、この部分を権利濫用の法理によつて排斥することは、理論上不可能だからである。思うてここに至れば、本件における多数意見は、前記大法廷の判決の多数意見に従わずこれを変更したものとさえ思われる点において、きわめて意味深く覚えるのである。

裁判官岩田誠の反対意見は次のとおりである。

私は原判決を破棄し、上告人の本訴請求を容認すべきものと思料し、松田裁判官の反対意見に同調するものである。

原判決の確定するところによれば、上告人は訴外先川宅郎に対する債権の支払確保のため被上告人振出にかかる本件約束手形を、その受取人日宝商事株式会社から裏書譲渡を受けて所持人となつたとして、被上告人に対し本件手形金の支払等を請求しているというのである。してみれば被上告人は本件手形の主たる債務者として所持人から手形金の請求があればこれが支払を為す義務を有するとともに右支払をする利益を有するものである。また上告人は、訴外先川宅郎に対する債権の支払確保のため同訴外人が実権を握つている受取人日宝商事株式会社から本件手形の裏書を受けたところ、上告人の右訴外先川に対する債権は完済を得たので受取人から上告人に対する裏書譲渡の原因関係は消滅したとしても、それは裏書人と手形所持人である上告人との間のことであつて、そのために被上告人の手形振出人としての責任に消長を来たすものではない。上告人が、裏書人との間での原因関係たる債権の満足を得ていながら、更に手形金を振出人たる被上告人に請求することは不当のように見えるからといつて、これを権利の濫用であとるして排斥することは、松田裁判官も述べられるように、手形の流通性を害する虞もあつて、許されないものと思う。上告人が二重の弁済を受ける等の不当は、上告人と、裏書人たる日宝商事株式会社若しくは訴外先川との間で解決せしむべき事柄と考える。

よつて多数意見には賛同できず、松田裁判官の反対意見に同調する。(横田正俊 入江俊郎 草鹿浅之介 長部謹吾 城戸芳彦 石田和外 田中二郎 松田二郎 岩田誠 下村三郎 色川幸太郎 大隅健一郎 松本正雄 飯村義美 奥野健一は、退官のため署名押印することができない。)

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